世の中、ワールドカップで盛り上がってますが、
私は、昨日のルーズベルトゲームに、泣かされました(:;)
みなさま、いつもこの自己満足日記に、おつきあい頂きありがとうございます。
連載を初めて、昔を振り返って、自分を深く理解できたように思います。
自分だけの日記として記せばいいのかも知れませんが
人に見せる文章を書くことも、私の言語スキルUPのために重要なので
もうしばらく続けさせて頂きま〜す♪
床屋の看板娘編
オルカの親の高校だけは卒業させたいという気持ちを裏切って、高校を中退した。
この時から、30代ぐらいまでは、学歴コンプレックスを抱えて生きていたように思う。
学歴ないんだから、人並み以上に頑張らなくっちゃって思っていたんだけど
何をしたらよいか具体的な目標があるわけではなかった(^^;)
みんな学校に行っているから、一緒に遊べるわけでもないし
とにかく、どこにも所属してない状態にも耐えられず
とりあえず働かなきゃって思って、友達が以前働いてた伊勢佐木町の床屋に
面接にいって、すぐに働きながら、通信教育で理容学校に行ったのだった。
その床屋さんは、キャバレー(当時はキャバクラはない)の店員やホスト、893、警察とか
伊勢佐木町ということもあって、商売をしているお客様が多く
バブル景気前だったけれど、チップだけで、一日数万円になることが多かったので
仕事の終わりに、店長がみんなを飲み屋に連れてってくれたりした。
17歳で働き出して、初めは「いらっしゃいませ」が恥ずかしくて言えなかった。
でも、すぐに慣れて、立ちっぱなしで身体はきつかったけど、何もかも新鮮ですごく楽しかった。
お店のみんなが、「オルカちゃん、こっち手伝って〜」と言ってくれて
タオル洗ったり、パーマの助手をやったり、シャンプーなどの下働きを
ちゃんと評価してもらえて、お客さまから、チップをもらったり(お店にわたす)
ぺちゃくちゃお喋りしたり、なにより遅くまで働くので
オルカは、いつのまにか寂しさを感じなくなっていった。
でも、その店は、技術者(スタイリスト)がたくさんいるから、
なかなか下働き以上の仕事をさせてもらえないように感じてきたのと、
人間関係のトラブルで辞めて、その後、金沢八景の床屋で働きだした。
伊勢佐木町の床屋さんは、上手いこと褒めて動かそうという人が多かったのに比べ
八景のお店の先輩たちは職人気質で、初めは目も合わせてもらえず、話かけられもせず辛かったが、
ここでは、次々仕事を覚えさせてもらい、理容師免許もここで取得したはずだ。
この時期オルカは、長時間労働をしていて、
8時間以上床屋で働き、終わって9時とか10時ぐらいから12時ぐらいまで
カウンターバーみたいなところで、週に何日かは働いていた。
お金が欲しいわけではなくて、一人の時間を過ごすのが嫌だったんだと思う。
この店では、同僚の女の子とある日、お店をボイコットした思い出ある。
なぜ、あんな事をしたのか覚えてないんだけど、お昼を食べたあと、二人で消えちゃったのだ。
当然、とんでもない大騒ぎになったんだけど、
同僚の女の子の家が、お金持ちで店主に、アパートみたな物件を安く売って、お咎めなしになった。
私はその後、居づらくなって、その八景の店をやめて、東戸塚の床屋で働き、
胃せんこうになってその店を辞めて、以後、床屋の仕事自体をやめた。
胃せんこうって、胃に穴があいちゃうんだけど、
もうどこが痛いのか、わからなくなるぐらい痛くて、気を失って
東戸塚の床屋から救急車で、運ばれたんだった。
原因は、たぶんストレスだったんだと思う。
その頃のオルカは、今と違って、他人中心に生きていて、神経をすり減らしていた。
その後は、ふらふらして定職につかず、中華街でウエートレスや
関内や福富町でホステスしてたり
ポーカーゲーム屋に、入り浸ったりちょっぴり自暴自棄な時代を過ごす。
そして、ある日、母が加入している保険の外交員さんから
「不動産屋の事務の仕事してみない?」と言われて、面接に行くことになった。
次回は、「OLって、楽なのね」です♪
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